福岡県朝倉郡在住、1962年2月3日昼の12時07分福岡県大牟田市に生まれる。 愛知県立芸術大学を卒業後、一度創作から離れたが、35歳の時に突然抽象画のイメージが降りてきて現在に至る。 発表歴は40歳ぐらいの時に福岡県立美術館とニューヨークのセーラムギャラリーの他数回。
わたしにどうかご支援ください。
わたしは絵を描く傍ら、警備員をやって生計を立てております。
しかし、如何せん薄給の為に画材の購入がままなりません。
もしふんだんに画材を確保できれば、2メートルサイズの油絵を無限に描くことができます。
わたしは絵のこと以外は慎ましやかな生活で充分なのです。
よろしくお願いいたします。
わたしのホームページ
https://www.arttak01.net/
わたしのnote
https://note.com/takahiro_arttak
わたしのインスタグラム
https://www.instagram.com/artkawano1/
お問い合わせはこちら
takahiro1アットarttak.net
わたしは宇宙から降りてくる無形のイメージを画面に描き出す抽象画家です。
わたしは幼い頃からおとなしく、外で遊ぶよりは家の中で本を読んだり絵を描いたりするのが好きな子供でした。
愛知芸大で油絵を学んだ当時、わたしは主に人物画を描いていました。
卒業後長いスランプのあと、35歳頃から突然平面の中に抽象的な形態を生み出せるようになり、自然と抽象画を描くようになりました。
目に見える具体的な形に縛られることなく思うままの形と色を生み出すことはとても楽しいことです。
35歳の当時は日本の文字を書くための道具である「筆ペン(ぺんてる社製)」を、通常の使い方ではなく絵の具を塗るときのように画面に向かって寝かせて描いて、それに鉛筆やマーカー、パステルなどを合わせた、白を基調にした絵を描いていました。
それから段々と大きな紙にアクリル絵の具で描くようになり、2020年の9月半ばになって、キャンバスに油彩と、和紙やポストカードに鉛筆のドローイングが中心になりました。
わたしの絵は複雑なテクニックなどはなく、画面にダイレクトに筆を走らせる事により、直接人の感情に訴えることができると思っています。
わたしは絵を描き、その絵が一人でも多くの人々に伝わることで、一人ひとりが心に持っている躍動のエネルギーを呼び覚まして、その感動から日常の生活に還り、健やかで元氣な状態で過ごしていけるようになることを目的としています。
biography
河野隆尋は、1962年2月3日、昼の12時07分、日本の福岡県大牟田市に生まれた。
地方公務員の長男として生まれた彼は、幼い頃から外で遊ぶより家の中にいる方が好きな子どもであった。
そして彼は、絵を描くのが好きな子どもであった。
小、中学生の頃の彼は、夜になるとベッドの枕元に明かりをともし、ノートに創作のロボットなどを描いていたが、母親が部屋に入ってくると、それをすぐに布団の中に隠していた。
母は、「描いてもいいのよ」と言ってくれたが、彼のその癖は高校生になるまで治らなかった。
友人たちの間では、漫画のキャラクターを真似て描いては人氣を得ていた。
中学生になると、彼は漫画家を目指すようになった。
そして、高校に入学して、漫画同好会が入っている美術部に、彼の友人に誘われて入部した。
そこで漫画家の道から離れて、アートを志すようになる。
なぜなら、彼が本格的に油絵やデッサンに触れて、自分の画才に覚醒めたからである。
彼は芸術大学を目指すことになる。
しかし、最初の受験に失敗したあと、東京で浪人をして、愛知県立芸術大学に合格した。
そこで彼は、ラグビーやロックバンドの活動に夢中になるが、自分の絵のスタイルは卒業するまで確立しないまま、それでも満足できる卒業制作を描き切った。
その後、急激に創作意欲が失せてしまい、大学院進学に失敗する。
そして一年留年したあと、絵画に挫折してサラリーマンとして働くことになった。
彼のサラリーマン生活は苦難の連続であった。
うまくいっていた会社では、働きすぎによる過労でダウンしたり、いろんな職業を経験するも、何故か人と馴染めなかったり、そもそも仕事についていけなかったりした。
そして、35歳を迎えたある日、ふとした時に抽象画のイメージが降りてきて、それ以降彼はサラリーマンをやりながら絵を描き続けた。
40歳くらいになった頃、ニューヨークはセーラム・ギャラリーで個展を開くも、その後の彼の知名度は上がらないままであった。
そして、一時は生活保護を受けるまで身を落としたが、2020年の9月に東峰村という所に移り住んで、彼の天才が開花した。
彼の現在の作品の迫力とスピード感は凄まじいものである。
現在の彼は、パトロンを探して、画材の確保をしようとしている最中である。
彼が高校一年生のときに立てた志は以下のようなものであった。
「わたしは人類屈指のアーティストになり、人々を感動させる真のアートを描くのだ」
彼は現在、それに向って邁進中である。